劇団「東京キッドブラザース」と、その主宰者・劇作家・演出家の東由多加氏について。


東京キッドブラザース(設立当時は「東京キッド兄弟商会」)は、1968年12月、寺山修司主宰の「天井桟敷」を脱した東由多加が大学時代の仲間に声を掛け、 集まった8名でスタートした。2012年には、創設から44年目を迎える。


旗揚げ公演「交響曲第八番は未完成だった」初日の観客はわずか3名だったが、楽日には舞台まで観客が溢れる大盛況で幕を閉じる。次回作「東京キッド」が来日中のブロードウエイミュージカル「ヘアー」の演出家の目にとまり、その翌年に上演された「黄金バット」を引っさげて“キッド”はニューヨークへ渡る。

ベトナム戦争の影響により、60年代後半から日本では大学紛争が激化。アメリカでも経済悪化の懸念から、芝居の公演にお金をつぎ込むようなムードではなかった。紆余曲折の中でキッドの救世主となるのが「N.Y ラ・ママシアター」のエレン・スチュワート女史だった。エレンのもとで大成功を収めたキッドたちは、70年の暮れに帰国したときには一躍有名人であった。


キッドのミュージカルは「愛と平和(連帯)」を掲げる若者たちの戦いであった。東の言葉で言えば―誰もが陽気に怒り、明日に向かって撃ちつづけた「反乱」の時代。ニューヨークでの成功の後、後楽園ホールで「帰ってきた黄金バット」を上演する。各都道府県から若者を招待して舞台に参加させるという『全国全キッド』キャンペーンを展開し取材が殺到。

71年には総勢80名の『キッド旅行団』を結成し「八犬伝」で4ヶ月に渡るヨーロッパ(~北アフリカ)ツアーに出る。このときツアーに古沢憲吾監督が同行し「ユートピア」というドキュメント映画が作られた。さらに翌72年「西遊記」でも旅行団とヨーロッパツアーを行なう。海外を股にかけ勢力的に活動を続けたキッドであるが、海外公演初のロックミュージカル「ザ・シティ」の公演が失敗に終わると、帰国後、劇団の所持金はわずか五百円。大勢の劇団員が去っていき、残った役者は一人であった。

ここでひとつの時代が終わり、キッドは、東はロックミュージックに別れを告げる。
設立から6年が経ち、東はひとつの時代が終わったことを噛みしめながらも、それでも自らが情熱を傾けることができるのは「ミュージカル」しかないと著書のなかで語っている。さよならフラワー・チルドレン―。ぼくは中年の仲間入りをする。

「ぼくのミュージカルに影響を与えたものが二つある。」ひとつはミュージカル「ヘアー」、そしてもうひとつ、それが小椋佳の音楽であった。キッドを語るうえで小椋の曲は切っても切り離すことができない。キッドが創った最後の劇場となった『キッドシアター』での最終公演まで、小椋の歌は歌い継がれたのである。


「十月は黄昏の国('75)」は、フォーク・ミュージカルの第一弾となった作品である。オーディションに合格した坪田直子がヒロイン役で、キッドに時々出入りをしていた柴田恭兵が「芝居をやってみない?」の一言で参加。黒塗りで黒人ダンサーを演じた。「黄色いリボン・復活版('77)」に学生だった飯山弘章・名和利志子がオーディションに合格して参加。その後、飯山は「黄金バット・復活版('77)」で本格デビュー。

78年、新宿に『シアター365』オープン。文字通り1年365日芝居をやろう!という試み。「彼が殺した驢馬」「冬のシンガポール」「失われた藍の色」が上演された。ここからキッドは再び盛り上がり最盛期を迎える。日本武道館で「十二月の夢」が上演され、テレビ朝日開局20周年記念番組「南太平洋ミュージカル・サラムム」がTV放映。79年「ハメールンの笛」から全国ツアーをスタートさせる。

「サラムム」を皮切りに、「ハメールンの笛」「街のメロス 愛のメリーゴーランド編/愛の観覧車編」「オリーブの枝」「哀しみのキッチン」と立て続けに作品の上演があり、LPレコードも発売されている。1979年上演のこれらの作品は、東京キッドブラザース10周年記念作品である。「オリーブの枝」で歌われた『BLOOD SWEAT&TEARS』はレコードで『TOMORROW』というタイトルになっている。

この翌年、80’第4期オーディションで磯部弘・小野剛民が入団。この年、映画「霧のマンハッタン」公開。さらに、81’第5期で林邦應・萩原好峰入団。二人はこの年の「恭兵コンサート」のバックダンサーとしてデビュー。この頃、KID'80という名前で新人公演が行なわれるようになる。81年末に「SHIRO」を持って再びN.Y公演。
82’6月原宿に稽古場兼小劇場「WORK SHOP」オープン。第一回公演は「ペルーの野球」。
磯部が柴田とWキャストをつとめた。83’「SHIRO」で全米ツアー。

84’第8期研究生として長戸勝彦・水谷あつし入団。この年、KID15周年公演「桜んぼ戦争」がパルコ・パート3で上演された。
同年『WORK SHOP』で再演された「キッチン」「藍の色」には、柴田の役に長戸が異例の大抜擢を受けた。
85'「スーパーマーケットロマンス」86'「シシリアでダンス」「冒険ブルックリンまで」上演。
この「ブルックリンまで」は柴田が出演しない作品となり、動員には大変な苦労があったが、後にファン投票で25周年記念公演の1位に選ばれる秀作である。


87’7月、稽古場を原宿から(東京港区)海岸3丁目『WATER』に移す。同年上演された 「遠い国のポルカ」は、実質的に柴田恭兵がキッドの舞台に立った最後の作品となる。
88’「夢の湖」はキッド創立20周年記念の作品である。89’「musial KID」、つづく「蛍の町」では、JA-JAの二人が『夏の少年』という曲を熱唱するシーンも登場した。「蛍の町」は、「冒険ブルックリンまで」「夢の湖」に続く“街シリーズ”の三部作の完結編であると東由多加は語っている。 『もしこれまでのキッドの作品の中で、キッドを代表する作品は何かと言われたら、多分この三作品から選ぶことになると思います。それほどぼくにとっては愛着のある三部作ということになります。』

キッドの第二世代と言われる『セカンドカンパニィ』が誕生し89'「Good-by TV」を上演。
キッドは90’「夕空晴れて」91’「葡萄畑のラビット」92’「桜組」を発表。92’には25周年記念公演として「冒険ブルックリンまで」を上演。
年末に「愛の磁力」と銘打ってコンサートを行なった。93’は「ブルックリン」と「夢の湖」で全国ツアーを行なう。94’「深川ホームレスタウン」は、東由多加が「SHIRO」以来、手掛けた時代劇であり山本周五郎作品がコラージュされている。

キッド54作品目のミュージカル「草原の木馬」は『KID THEATER』のオープニングショーとなる。テーマソングを小椋佳が担当した。
95’「スリーチルドレン」「哀しみの酒場のバラード」96’「時哉の冒険」そして、97’「はつ恋」が『KID THEATER』での最後の作品となる。
そして1999年東京キッドブラザース公演として行なわれた「BUS STOP」で、キッドは活動を停止。
2000年4月 東 由多加 永眠